昭和45年11月06日 夜の教話
今確実に和楽のお稽古があっております。今日もああしてあっとる訳ですけれども。中にあの、貞男さんが、笛をおかげ頂きたいち言うて、まぁ一生懸命、稽古をさせてもらいよります。そりゃ、もう、だいたい、この鳴るという事では、もうその笛が一番難しいという事でございます。篳篥とか、笙とかって言うのは、もう誰でも吹けば鳴る。難しいという事は、大変、笙、篳篥は難しいですね。
けれどもその鳴るという点においては、やはり横笛は大変難しい。鳴る様になったらだいたい、それから稽古が出来るという事だそうですが、毎日毎日ああやって自分の家に笛を持って帰って、やっぱ稽古しておる様です。終わりましてここ終わってから、先日お茶を差し上げる時私も入って色々まあ、先生のお話を聞かせて頂きよりますと、訳の分かるか分からんか知らんけれども、もう一生懸命そのお喋りをするんですよね。
それで私がとこうその話をしちゃいけんと。もうあの人は話をしだしたら、もうそれこそ止めようのなかごとするですよ。何か訳ん分からん話を。それでね私がそうと思ったら、瞬間神様がですね、ちゃり役と仰る。これはあのお芝居で言う、ちゃり役て言うのは普通でいう三枚目なんです。だから、三枚目の御用を勤めておる訳なんですよねあれで。はあ、そげな要らん事を思うたり言うたりしたりしてはいけないと。
あれはあれなりに、神様が使うて下さりよるのだと言うような事を頂いてね。なるほど、神様はどういう人にでもいわば持ち場立場といったような事を頂きますけれど、やはりああして一生懸命やっておるという事は、まあ一つのお芝居で言うなら普通三枚目は、なかなか出来ないのをあの人は、三枚目の御用を承っておるんだということ。今日朝の御祈念の後に、熊谷さんがお参りになってから。先生幹三郎ちゃんがあんな状態になられてから、朝のお参りそして夜の御祈念にお参り。
そしてこれはもう幹三郎ちゃんのためにという思いで、四時の御祈念を頂きたいと思いますと言うて、四時の御祈念に毎日お参りになるんです。もう本当に朝昼晩という事は大変なこと。往復六里の道をね、いくらバスとは言いながら、お参りになるということは、もう随分と心にかけとかなきゃならない事であろう。それで今日色々考えさせて頂いておりましたら、何か私が暇人だから、何かと言う様なところ。
出過ぎておるのじゃなかろうかと言う様な事を、御神意を頂いて、これは出過ぎておるとならば、引っ込まにゃいけんけんという意味のことがありましたら。神様は向こう向いて知らん顔しとりなさるような感じでしたよ、そのお届けがある時に。いかにも幹三郎ちゃんの為と言って、なるほど、幹三郎ちゃんのために、一生懸命の修行、なるほど暇人でなからなければ出けるこっじゃなかて、朝昼晩参るということは。その暇を頂いておるという事が一番言うならばね、適当な適材適所。
しかも総代としてです。例えば一人ででもです昼の御祈念に、例えばその事のために、幹三郎様ご病気平癒、御祈願のためにと言うて、お参りになられる、その事がです。私はだから神様は知らんて私が申しましたどげんか。熊谷さんのそのお伺いに対して。そりゃ出すぎるとか、暇人じゃけんて笑いなさるかもしれん。けれどもね、私はねあの四時の御祈念に、あなたがお参りになると、非常に有り難い御祈念が出来るんですよて、私は神様の御神意ではなくて、私はそう申しましたがね。
今日のその御理解を頂いて思うんです。それこそはたしてこれが一つのお芝居ならお芝居という事で、熊谷さんが努めておられる御用ってのは、どういう事であろうか。まあ先代萩で言うなら、政岡のような役じゃなかろうか。いわゆる立ち女形とこう申します。それこそ、自分の子供が殺されても涙一滴身に持たん。それこそ男勝りの政岡がといったような、あのございますねお女郎の文句に。そういう感じで例えば熊谷さんなんかの場合なんかはそういう立場。
他の者じゃ出けない事なんです。朝なら朝だけでも出けん人がある。ほんなら暇があったっちゃ昼も参れる人参れりゃ、参ろうと思や参れる事の出来る人でも、中々そこまでは出けない。ほんなら夜でんちゃさぁ夜も出来ん。時々参った時どんお願いをするという人もあるある。いやお願いしない人もある。それでもやはり合楽のご信心の中に、あっていかにゃならん何かそこに一人一役と、言った様なのがあるはずなんだ。
それをもう特別、もうこの人でなからなければ出来ないというほどしの、例えば役前を果たして行きよんなさる事ですから。私は神様は知らんよて、私は神様はどげん思いなさるか、出過ぎるち思うとりなさるか分からん。私はもちろん御神意も伺いませんでした。けれども私がこれほどに有り難い思いで、あなた一人の昼のお参りが有り難く御祈念が出けるもの。
それが、おかげにならんはずはなかて、私は申しました事ですよね。お互いがね、合楽という大きな一つの舞台で、それぞれの役前というものを果たしておる訳です。ですから、その本当に、持ち場立場で、やはり一心の真を捧げて願わせて頂いておるという事がね、有り難いのじゃないのでしょうか。人が何とか言うとか。人の手前じゃない、言うならば、自分の信心がそこに毅然として樹立されて行くというか、打ち立てられて行くという事が、私は本当な事じゃないかと思いますですね。
どうぞ。